源氏嫡流(かりにそのようなものがあったとするならば)が摂津源氏か河内源氏かはともかく、武門の主流は、京都を活動基盤とした頼光の弟の頼信にはじまり坂東へ勢力を扶植し、武家棟梁となった河内源氏のものとなる。後に河内源氏の流れを汲む源頼朝が鎌倉に幕府を開くが、源氏嫡流意識なるものは、この頼朝が武家の中での自己と自家の地位を特別視するために作り出したものともいえる。そして頼朝の先祖を遡及し、源頼光の弟の源頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏を源氏嫡流と見るようになったのであろう。 事実、以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際、はじめに挙兵した源頼政は清和源氏としては初の従三位という高位にあり長者ともいうべき地位にあったが、実際、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られ、むしろ、祖先の弟の系統である頼朝の方が東国において圧倒的求心力を得るに至った。それは頼朝が清和源氏の中で嫡流であったかというよりも、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産と、平家に不満のあった東国武士との政治的利害関係があればこそである。故に頼朝はそうした東国武士に対する求心力と、朝廷から受けた寿永二年十月宣旨、文治の勅許、将軍宣下など朝廷から与えられた特権を背景に、他の源氏一門と差別化し、頼朝の系統を嫡流とすることに成功することができたといえる。 頼朝は弟 源義経以下家人の自由任官を咎め、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占権とした他、源氏一門の中でも直系であった多田源氏の多田行綱を多田荘から追放しその家人を御家人に編入した。さらに、血縁の嫡庶遠近に関わらず功績のあった者のみに自らと同様、源姓使用を許す門葉として遇し、それ以外は源氏一門といえども御家人となった者が除目などの必要ある場合を除き源姓を使用することを禁じた。これらのことはまさに自らをして武家源氏の棟梁たる気概を見せたに他ならない。
颯真の以心伝心
アジアの海賊
アルプスの牧場
うたばんの生活
おしゃれな吉祥寺
お子様ランチ
ギャンブル馬鹿
コーヒーの木
サンキュー
ズッコケ男道
タルトちゃん
とんがり帽子
ハチミツマーヤ
ピッチの表現の自由
ブレンドコーヒー
マイクマン
ももたろう
レタスの雑記帳
飴色の部屋
王子のコンピュータ入門
しかし、源頼朝の一族が源実朝で滅びると、せっかく頼朝が独占した源氏嫡流たる特権も、外戚北条氏に実権を奪われ、嫡流という名分は源氏一族の中で最大勢力である源義国に始まり、北条氏と密接な姻戚関係にある下野源氏の足利氏に移ることになる。